名古屋高等裁判所 昭和59年(ネ)250号 判決 1986年1月30日
控訴人
近藤助市
右訴訟代理人
成田薫
成田清
池田桂子
被控訴人
倉地良悦こと
倉地良一
和出加
右両名訴訟代理人
天野茂樹
主文
原判決を取消す。
被控訴人らは控訴人に対し原判決の別紙物件目録(一)記載の土地についてなされた原判決の別紙登記目録記載の所有権移転請求権仮登記の抹消登記手続をせよ。
被控訴人らの反訴請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
事実
一 控訴人は主文同旨の判決を求め、被控訴人は、「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。
二 当事者双方の主張は、次に付加・訂正するほか原判決事実摘示と同一であるからこれを引用する。
1 原判決三枚目表一一行目「締結し」の後に「(以下、「本件売買契約」という)」を加え、同枚目裏四行目の「受けている。」を「受けているところ、本件売買契約を締結するについては、保佐人である近藤マツエの同意がない。」と改める。
2 原判決六枚目表四行目から六行目を削除し、同七行目冒頭の「六、」を「三」と改める。
3 原判決六枚目裏四行目及び五行目を削除し、同六行目冒頭の「三、」を「二」と、同行目の「六項」を「三項」と、それぞれ改める。
4 原判決六枚目裏六行目の後に、つぎのとおり加える。
「第一〇、控訴人の抗弁
本訴請求原因二、三項と同じ。
第一一、抗弁に対する被控訴人らの認否
本訴請求原因二、三項に対する被控訴人らの認否と同じ。
第一二、被控訴人らの再抗弁
本訴抗弁一ないし三項と同じ。
第一三、再抗弁に対する控訴人の認否
本訴抗弁一ないし三項に対する控訴人の認否と同じ。」
三 証拠関係<省略>
理由
一本訴請求原因一項及び三項の事実(反訴請求原因二項の事実)は当事者間に争いがなく、また反訴請求原因一項の事実中、本件売買契約の代金が一三〇〇万円であり、被控訴人らが代金内金一一〇〇万円を支払い、残代金は本件(一)、(二)の土地の所有権移転登記手続と引換えに支払う約定であつたことは控訴人がこれを明らかに争わないので自白したものとみなし、その余は当事者間に争いがない。
そして、<証拠>によると、控訴人は、名古屋家庭裁判所岡崎支部において昭和五三年一月一三日、心神耗弱の状態にあることを理由として準禁治産宣告の審判を受け、同年二月一日右審判確定により準禁治産者となり、妻である近藤マツエがその保佐人となつたことが認められ、これに反する証拠はない。
次に、<証拠>によれば、本件売買契約の締結については、控訴人は保佐人の近藤マツエの同意を得ていないことが認められる。
二ところで、被控訴人らは、本件売買契約の締結については準禁治産者の控訴人において詐術を用いたものであるから、控訴人はこれを取消すことはできない旨主張する。
民法二〇条にいう「詐術ヲ用ヰタルトキ」とは無能力者が能力者であることを誤信させるために、相手方に対し積極的術策を用いた場合にかぎるものではなく、無能力者がふつうに人を欺くに足りる言動を用いて相手方の誤信を誘起し、または誤信を強めた場合をも包含すると解すべきである。したがつて、無能力者であることを黙秘していた場合には、無能力者の他の言動などを総合して詐術の有無を判断すべきである(最高裁昭和四四年二月一三日第一小法廷判決、民集二三巻二号二九一頁)。
1 <証拠>によると、控訴人は明治四四年二月一七日生れで昭和一〇年五月七日妻マツエと婚姻し、娘四人をもうけたが、知能が低く、ひらがなは読めるものの漢字の読み書きはできず、簡単な足し算はできるが少し複雑な四則計算はできず、自己の住所氏名を漢字で書くのがせいいつぱいであり、父近藤兵太郎の存命中はその監督や妻マツエの介添などで無難な生活をしてきたものの、気前がよくお人好しであるため、兵太郎死亡後の昭和三三年すぎころ及び昭和五一、二年ころに、いずれも土地を担保にして高利貸から借財をし、それが発覚してから妻マツエや親戚の努力で所有不動産を売却して借財整理にあてたことがあり、遂に妻マツエから準禁治産宣告の申立(名古屋家裁岡崎支部昭和五二年(家)第一〇六四号)により昭和五三年一月一三日同宣告がなされたが、昭和五二年一二月二三日、右事件につきなされた鑑定では、控訴人は八、九歳程度の知能で中等度痴愚級の精神薄弱であり、その社会的責任能力は不安定で、特に財産管理能力は殆んど薄弱である旨鑑定されていることが認められる。
2 <証拠>によると、(一)控訴人は前記のように昭和五二年ころ、土地を担保に高利貸より借金をしてこれを浪費したことがあり、このことが原因となつて準禁治産宣言を受けたが、昭和五三、四年ころには、喫茶店などで顔見知りとなつた加藤昇や榊原兼男(当時、同人らが正業についていたとは認められない)らの関与のもとに、金融業者等から借金し、特に、近藤宏には多額の借財があつた。加藤昇や榊原兼男は、控訴人が準禁治産者であることを知つていたのであるが、加藤は、知人の被控訴人倉地良一から融資を受けようと考え、昭和五五年三月下旬頃、控訴人及び榊原と同道して被控訴人倉地良一方を訪れ、同人に対し、「控訴人が高利貸に借金し困つているので金を貸してほしい」旨依頼した。同被控訴人は担保の土地があれば貸してもよいと答え、控訴人は、その所有にかかる豊田市和会町東山三八番田六七四平方メートルにつき、同年四月三日、権利者を同被控訴人とする所有権移転請求権仮登記を了し、そのころ、同被控訴人から金三〇〇万円(利息六〇万円を天引)を借受けるに致つた。(二)控訴人、加藤、榊原の三名は、同月上旬頃、同被控訴人に面談し、加藤、榊原の両名は、同被控訴人に対し「控訴人の相談に乗つてほしい」旨言い残して帰り、被控訴人は控訴人を被控訴人方へ同道して事情を尋ねたところ、控訴人は同被控訴人に対し、「金が足りないので金八〇〇万円貸してほしい」旨直接、借金を申込んだ。同被控訴人は、これ以上金を貸すことはできないが、土地の売買なら応ずるとの態度を示したところ、控訴人は、「加藤と相談してくる」と言つて、一旦、帰つた。(三)控訴人は、同月一〇日ころ、同被控訴人方を訪れ、土地を売つてもよいと言つて、本件土地の登記簿謄本、公図、印鑑証明書等を持参したので、同被控訴人は控訴人と共に現地を見分したうえ、代金を工面する必要から、被控訴人和出加にも口をかけ、共同で買受けることとなつた。同月一四日、控訴人はひとりで被控訴人倉地方を訪れ、同人方で被控訴人ら両名と控訴人とが同席したうえ、売買代金を金一三〇〇万円と定めて契約書を作成し、同日、手付金を含め金一一〇〇万円を支払うこととし、被控訴人倉地においては前記貸金三〇〇万円を控除した金二五〇万円、被控訴人和出においては金五五〇万円の合計金八〇〇万円を控訴人に支払つたことを認めることができる。
3 右2で確認したところによると、他に特段の事由なき限り、控訴人が本件売買契約締結について、詐術を用いたと認める余地はないものと認められる。
(一) もつとも、<証拠>によると、控訴人は自己が準禁治産者であることは知つていたこと、控訴人は、従前、前記近藤宏から借金するに際し、同人に運転免許証を示して自己紹介したことがあり、本件売買契約締結に際しても、初対面の被控訴人和出に運転免許証を示して自己紹介したことが認められる。
しかし、控訴人が八、九歳程度の中等度痴愚級の精神薄弱であり、特に、財産管理能力を殆んど有しないことは前記のとおりであり、<証拠>にみられる別件事件における控訴人の供述の内容、原審及び当審における控訴本人の供述の経過、変せんを検討すると、控訴人は、自己が準禁治産者であることを知つていたとはいえ、その認識の程度は薄弱であつたことは、容易にこれを推認することができる。また、控訴人が被控訴人和出に対し、自己の運転免許証を呈示した点について検討するに、<証拠>によると、控訴人は当初、ペーパーテストなしで二輪車の免許を取つたが、それが数次に亘り切替えられ、四輪車の免許を受けることができたことが認められ、また、<証拠>によると、前記のように知能が低く漢字の読み書きもできず、自己の住所も書けず、社会的責任能力も不安定な控訴人にとつて、自己の日常の社会生活において、自己の同一性を表示するためには、運転免許証を利用することが最も簡便にして有効な生活方法であることを体験的に知り、これを使用して来たものであることが認められ、かつ、<証拠>によると、当日、同被控訴人が初対面の控訴人に対し、自己紹介したのに対して、控訴人が運転免許証を呈示したことが認められるのである。以上によると、運転免許証の呈示を捉え、これを詐術の一要素とするのは相当でないというべきである。
(二) 次に、<証拠>によると、本件売買契約当日、控訴人が売買契約書及び代金の領収書に自ら署名したこと、右契約書には不動文字による条項及び特約条項が記載され、また、右領収書は二通作成され、一通は、控訴人がさきに被控訴人倉地より借受けていた三〇〇万円分を含んだ金額の領収書であることが認められるのであるが、控訴人がこれらの事柄を理解して署名したものであるかどうかは原審及び当審における控訴本人尋問の結果に照らし疑問であるといわざるを得ない。また、原審及び当審における被控訴人ら各本人尋問の結果によると、控訴人は右署名に際し、「自分は以前、石屋をしていて手がふるえてしまう」とか「事業に失敗して借財を作つてしまつた」とか言つていたことが認められるが、このことは、自己の字が余りに下手であることに対する弁解の言辞であると推認され、控訴人の用いた詐術の一つであるとまでは認めることはできない。
(三) 更に控訴人は本件売買契約締結のために、印鑑登録証明書、登記薄謄本等を呈示したことは前述のとおりであるけれども、前掲各証拠によると控訴人は過去に不動産売買にかかわつた経験があり、売買関係書類としてそれが必要であるとのそれなりの知識は有していたとみられるので、あながち不自然ではない。しかも<証拠>によると、控訴人はその登録印鑑を保佐人である妻近藤マツエに取上げられていたので、榊原や加藤のいうなりに、住所の変更手続までしてあらためて登録印鑑をつくつたものであることが認められるのである。したがつて前記書類の呈示も、控訴人が自らの意思にもとづいてしたものとは認めがたい。また、本件売買契約を締約するに至つた動機及び受領した売買代金の使途については、原審及び当審における控訴本人尋問の結果によつて必ずしも明らかでないのであつて、これまでにも加藤のいうまま他から借り受けた金員はその大半が高利貸に対する返済や加藤や榊原らの手に渡つていること(右控訴本人尋問の結果によつて認められる)をも考慮すると、右登記薄謄本等の呈示をもつて、到底、詐術と認めることはできない。
(四) <証拠>によると、控訴人は本件売買契約締結の席上で、被控訴人らに対し、「養子は碧海信用金庫の支店長(事実は岡崎信用金庫豊明支店勤務)である」との趣旨の発言をしていた事実を認めるに吝かではない。しかし、前認定の本件売買契約締結に至る経緯からみると、右の言葉は控訴人の能力に関しての言辞であるとは認め難いうえ、この言辞が、被控訴人らをして契約締結の意思を生じさせ、ないしは右意思を強めたと認めることは困難というべきである。その他、控訴人において自己の行為能力につき、被控訴人らを誤信させ、または誤信を強めた格段の言動などを窺うことはできない。また、控訴人が、当時、榊原兼男、加藤昇らに対し、控訴人が準禁治産者であることを被控訴人倉地に告げないように口止めをしたとの事実にそう前記甲第六、七号証、原審証人榊原兼男の証言は、榊原の言うところは、措信し難い点が多いことと、前認定の控訴人の知能・精神状態、社会的責任能力に照らし、にわかに採用し難く、他に、この点の証拠はない。
以上のとおりであるから、控訴人が本件売買契約を締結するについて、詐術を用いたとする被控訴人らの主張は理由がない。
三被控訴人らは、保佐人である近藤マツエは昭和五五年八月未日ころ、本件売買契約につき追認した旨主張する。
しかし、被控訴人らの右の主張に符合する<証拠>は、後記認定事実に照して措信しがたく、ほかに右を認めるに足る証拠はない。すなわち<証拠>によると、被控訴人らは、本件売買契約が成立した二日後の昭和五五年四月一六日に近藤マツエから控訴人が準禁治産者であり、契約は無効である旨を聞かされ、驚いて弁護士や法務局等へ事情を聞きに行つたこと、その後、被控訴人らは弁護士の示唆で本件売買契約につき近藤マツエの同意を得ようとして同人と面談したこと、その後も双方の間で、本件売買契約をめぐり、近藤マツエが同意するかもしくは代金を返金すろか等の爾後処置につき折衝が継続されたこと、近藤マツエとしても価格如何では履行してもよいと考えたことがあつたが、同年八月下旬頃、被控訴人らに対して、親威の者と相談して決める旨を答えただけで本件売買に同意する旨を述べたことはないこと、近藤マツエは親戚と相談した結果、最終的には同意できないとの結論に達したが、その後も、被控訴人らは何回となく売却方を求めて来たこと、以上の事実が認められる。
右によれば、本件売買契約につき保佐人が追認したとは、にわかに認め難いのであるから、被控訴人らの主張は理由がないことが明白である。
四被控訴人らは、控訴人が本件売買契約を取消したことは権利の濫用であり、かつ、著しく信義則に反すると主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。
五以上のとおり、控訴人の本件(一)土地についてなされた原判決の別紙登記目録記載の仮登記の抹消登記手続を求める本訴請求は理由があり、被控訴人らの本件(一)、(二)の土地につき所有権移転登記手続等を求める反訴請求は理由がないから、これと結論を異にする原判決はこれを取消し、本訴請求はこれを認容し、反訴請求はこれを棄却することとし、訴訟費用につき民事訴訟法九六条、八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官可知鴻平 裁判官高橋爽一郎 裁判官宗 哲朗)